本:ポストコロナの生命哲学2

前回は、ポストコロナを生きていく上で
人間はピュシス(自然)を単に怖がるのではなく、
もう一つのピュシス、自分自身の生命を信頼すべきだということだ、
というところで終わりました。

自分自身の生命を信頼するとは、
元々備わっている自然免疫を信頼すること。

確かに我々にはある程度の病原体に対しては、
自然免疫が働いて侵入者を排除してくれる機構が備わっています。
そのあたりのことは、当院のブログでも書きました。
Let’s Study 自然免疫! 1~5

まぁ、その自然免疫の網をかいくぐって
増殖してくるのが新興感染症なわけで、
人類は太古から疫病が流行するたびに怖れおののき、
近代までその対抗方法は、(一部の経験的な医療をのぞき)
祈りしかありませんでした。

それが近代に入り科学の発展に伴い、ロゴス(論理)の力で、
一時は本当に駆逐できるかのような錯覚を感じていましたが、
結局のところピュシスから手痛いしっぺ返しを受けています。

さらに、ロゴス(科学)の影響から、極端な清潔指向が蔓延し、
我々が本来持っている自然の免疫力をも損ないかねない状況となっています。
我々は「安心」を得たいがために
自然免疫に対する「信頼」を犠牲にしてしまっているわけです。

実はこの「安心」と「信頼」については、
この本の第2章で著者の伊藤亜紗先生が触れられています。

”「信頼」と似ていると思われている言葉に「安心」があります。けれども「信頼」と「安心」の意味するところは逆だと言われています。「安心」が、相手がどういう行動を取るかはわからないので、その不確定要素を限りなく減らしていくものだとすると、相手がどういう行動を取るかわからないけれど大丈夫だろうというほうに賭けるのが「信頼」です。”(p.63)

このことを、親がスマートフォンのGPS機能で子どもを監視する例を
あげてうまく説明されています。
GPSで子どもがどこにいるかわかることで、親は「安心」を得ますが、
その分、子どもに対する「信頼」は失われていきます。

そして、テクノロジーは「安心」を求める方向に向かいがちなのですが、
100%の「安心」というものはなく、
今回のコロナの様な想定外の事は起こりえると。
それに対して、さらに安心を得る方向を追い求めると、
社会は「信頼」を失う一方であると。
信頼のない社会は相互に監視し合う社会なのだと言われます。

この本の中で福岡先生がアフターコロナをどう生きるかについて、
もう一つ重要な提言をされています。
それは「自由」を手放なさないこと。

人間が自然界で人間たらしめているのは、
ロゴスによって遺伝子の掟(種の保存)から自由になり、
「産めよ増やせよ」に貢献しない自由が認められたことであると。
種の保存に関わらない個体も生命として尊重されるという価値観は、
基本的人権の基礎となる考え方だけれども、
これはロゴスによって勝ち取ったものであり、
常に守り抜く努力が必要だとお話されています。(p.46)

相互監視社会というのは、為政者にとっては都合のよい社会であり、
常に気をつけておく必要があります。

そのあたりのことは、この本の後半部分でも、
もう一人の著者、藤原辰史先生のお話にも出てきます。
藤原先生はナチスドイツついて詳しい歴史学者です。

社会で危機的なことがが起こったとき、
様々な不安にかられている人々が求めがちなのは、
わかりやすいスローガンなのだそうです。
「一致団結してこの危機を乗り越えよう」「ワンチーム」
といった言葉は耳に心地よく響きますが、
その裏にある危うさには十分注意する必要があるとのこと。(p.82)

1929年世界恐慌の時にナチスが人々に語ったのが、
「血と土(Blut und Boden」という言葉で、
肉体を使い汗水垂らして働く、とりわけ土と向かう農業が大事だと説き、
アーリア人の血を受け継ぐドイツ人農民こそが、
ドイツの未来を築くのだと人々に呼びかけたそうです。
農業を重視する姿勢はよいのですが、
その結果、アーリア人優生思想が生まれ、
結果的にそれ以外の人種は劣っているとなり、国民に分断を印象づけ、
最後は大量虐殺などへと発展していったのだと。

我々の生活があらぬ方向に向かわないようにするためには、
我々は常に広い視野で、自分の頭で物事を考えながら、
日々暮らしていく必要があります。
それはポストコロナではもっと大切になってくるような気がします。

実はこの「自分の頭で物事を考える」というのが以外と難しい。
自分で考えているつもりが、
実は知らず知らずにいろいろな思惑に影響(洗脳)されている場合がある様です。

ではどうすればよいのか。非常に難しい問題です。

一つはいろいろな意見をできるだけフラットに聞く(読む)こと。
できるだけ一次資料(情報の源)に近いものにふれること。
論理的な考え方をしっかり行うことと、それとは逆に
感情的に何かひっかかるところがないかを自分の身体に問う、
つまり「自分の身体に耳をすます」こと。

・・・と、まあ、ありきたりな提案になってしまいましたが、
こんなところではないかと思います。

「自分の身体に問う」というのは意外に大切です。
生まれてから経験してきた身体の感覚は脳に格納されていて、
目の前で起こっていることに対して、
脳は島皮質を中心に逐次過去の情報と照らし合わせて判断している
という話があります。
このあたりのことは、以前何回かこのブログでお話しました。
(左バナーの検索欄で「島皮質」と入れるといくつか出てきます)

その過去の情報には普段感じることのできない内臓感覚も含まれています。
ですので、何かのできごとに対して判断が必要な時に、
「何となくひっかかるなぁ」という時は、
その感覚を大切にすべきかもしれません。
それはある種ピュシス的なもので、
それをきちんとした論理(ロゴス)で打ち破ることができるかどうか
検証してみる必要があります。

論理と感覚のどちらを優先するか。
可能であれば「どちらか」ではなく、
「どちらも」使って、できれば中腰で粘り強く考えていく姿勢が必要です。
そして、論理も感覚も常日頃から鍛えることが必要です。
どちらを優先して「判断」するにせよ、
そのバックボーンには「経験」が必要です。
そのためには、特に若い人は、
危なくない程度にではありますが、
どんどん外に出ていろんな経験を積んでほしいなと思います。