今年は開花も遅かったですが、結構桜がもっています。
もう少しお花見の話題を。
日本人が桜のお花見が好きなのは、
桜の咲き方、散り方が、
日本人の精神性に触れるものがあると言われています。
寒く厳しい冬を乗り越えたところで咲く喜びの花。
一つ一つの花びらはそれほど強い主張をしない色合い。
一斉に咲いて一斉に散るその潔さ。
それも満開に咲いている時期はさほど長くない。
美しく、儚い。
いずれも、日本人の心の底にある心情をゆさぶる花です。
まあ、今「日本人の心の底」なんて言葉を使いましたが、
聞いたら何となくそんな気持ちになりますが、
それはどこから来る心情なのでしょうか?
おそらく、物心つく頃か、あるいはそれよりも前から、
生まれてまもなくから、季節を通じて色々なことを、
言葉にできる前から感じているのだと思います。
以前から時々お話ししたことがある、
潜在意識や無意識といったものは、
幼い頃から感じ取っているものの積み重ねの様にも思います。
だから、大人が桜を見て”もののあわれ”を感じるのを、
幼い頃から知らず知らずに見ている間に、
若い世代もそうした感じ方を学習し感性を培い、
逆にそうしたとらえ方が心に蓄積されたがために、
桜の花を特別な花と感じるということなのかもしれません。
ただ、パッと咲いてパッと散る、そのはかなさと美しさ、
それは日本人の伝統的な心情ではありますが、
その感性を利用するものが出てこないかを
高い視点で監視しておくことは必要です。
かつての日本軍が行った情操のコントロールのようなことが
再び繰り返されないように。
ところで、話は変わりますが、
少し前の日経新聞のコラムにお花見の話が書いてありました。
賑やかな宴会と思っていたら、
実はそれが人生の最後の花見だなんて。
桜の花が満開になると、
どんなことがあってもお花見に行くための方便として、
「来年も花見が出来るかどうかなんてわからないから」
なんてことを言ってしまいがちです(僕だけか)。
それは天候であったり、仕事のスケジュールなんかで、
花見に行っている時間が合わないことを言っているのですが、
実際に本当にその花見が見納めだという人が
いることをあまり考えたことがありませんでした。
まあ、このコラムの中には、
「花見をされているみんなが満ち足りた表情である」
と書かれてあって、読んでいるこちらが少しばかり救われました。
思うような写真が撮れないくらいのことは、
大したことではありませんね。
「ああ、また今年も桜を見ることができてよかった。」
そう感謝しつつ、少し散りかけた桜にも思いをはせて、
また1年頑張りたいと思います。