『音をたずねて』 三宮麻由子, 文藝春秋
この院長のブログを始めて3年ちょっとになります。
の3年間、ブログを書くために何かネタはないかと、
いろんなアンテナを立てています。
そうするうちに、
自分の興味は、脳へのインプットである「五感」と、
アウトプットの「声」や「言葉」、
あるいはそれをつなぐ
脳そのものに向いてくるようになりました。
ですので、本屋さんに行ったときでも、
「音」「におい」「味覚」「声」「ことば」「脳」・・・
そんな単語が表題についていると
思わず本を手に取ってしまいます。
そんな中、今回は「音」。
この本を手に取って、
最初のまえがきの部分を読みはじめました。
>どんな音にせよ、私たちの心の中には、人間が代々伝えてきて私たちにもしっかりと受け継がれている「大記憶」とも呼べるような音があると思うのだ。それらは、お母さんの子守唄とかおばあちゃんが歌ってくれた童歌といった「懐かしい」音とは少し違う。懐かしい音ももちろん私たちの深層に聞こえる大切な音だけれど、私がここで言いたいのはもう少し大きなスケールで聞く音のことである。祭囃子、おもちゃ、花火、楽器、古来から現代まで愛用されている日常の道具の音、たとえばそんな音である。(中略)それらの音は、私たちの気持ちにかかわらずいつも同じに響いていることによって、高ぶった気持ちを平常に戻してくれたり、落ち込んだ気持ちを元気にしてくれたりする。(中略)
これが、人間が何気なく聞いていた「大記憶」も音、すなわち「音の原風景」なのである。
以前、山下柚実さんの『五感生活術』という本を紹介した時に、
筆者が「五感の履歴書」なるものを書いてみよう!
という提言をされていることを書きました。
>五感生活術(1)
>五感生活術(2)
僕もそれにならって幼少時の稲刈りの時のわらのニオイや、
そのとき食べた梨のことを思い出しました。
聴覚については、縮緬を織る音をその時に思い出しました。
この本では聴覚に関する「音の原風景」がとりあげられていますが、
「視覚の原風景」「味覚の原風景」「嗅覚の原風景」
「触覚の原風景」などもあるはずです。
あるいは、そうしたものを総合的に感じた、
「経験の原風景」なんてのもあるのではないでしょうか。
こうしたいろいろな原風景が、
その後の自分の礎になっていくのでしょう。
そういえば、以前、
『無意識との対話』というNHKテキストについて
お話しました。
無意識には、個人的無意識と普遍的無意識があり、
こうした無意識が潜在意識や自我意識に影響を与える、
と書いてあったことを思い出しました。
人間の意識と呼ばれるものを考える場合、
潜在意識というものがあるのは現代ではほぼ常識かと思います。
それに対して個人的無意識、すなわち、
我々が個人的に体験してきたこのと全記憶が
心の奥底に保存されているというのも、
本当に存在するのかどうかわかりませんが、
まあ可能性があるなと、わかります。
それに対して、
心の最も深い層にあると言われる普遍的無意識と呼ばれるもの、
それは個人を遙かに超えた、先祖や民族の記憶で、
太古の出来事に至るまで記録されているというのですが、
中々にわかには信じられないものではあります。
ただ、自分の記憶にないものでも、
生まれてからずっとそうした経験が原体験として、
記録されているのかもしれません。
特に聴覚は胎児のうちから発達してくると言われ、
母親のお腹の中ですでに音を聞いているといいます。
まあ、胎児の頃の音の記憶は、
多くは母親の鼓動の音くらいでしょうが、
生後から物心つくまでも含めて
しっかりと周囲の音を聞いていて、
それが深層心理に蓄えるものだとしたら、
これこそが、著者三宮さんのいうところの、
「大記憶」の音、本当の音の原風景なのかもしれません。