前日、前々日の続きです。
この本でもう一つ面白いなと思った話が、
第7章の”実写とアニメーション”について。
少し長いですが抜粋します。
>アニメーションがセリフをもつと、どういうことが起きてくるでしょうか?
(中略)実写の映画では、ここまでと描く世界を囲っても、演じる俳優がすぐれていれば、映画は囲った限定を越えていきます。存在は線は引けません。つねにそれは全体です。矛盾を生きる全体です。結果として、その限定は見えないものになっています。
アニメーションは絵ですから、セリフ以上のものは表現しません。そのセリフも、どんな名優が声を入れても、一つの方向、単一の意味しか伝えてきません。実写ではこれまで見てきたように、さまざまな条件のもとで相対化されていきますから、セリフの方向も意味も、開かれて拡散します。むしろそうして出来る隙間のようなところでセリフの意味そのものも深められます。
アニメーションはセリフをそのようなものとして発しませんし、受け取りもしません。絵で描かれた人物は、一つの表情を作るだけです。逆に言えば、一つのことを伝えるために、一つの絵が描かれるのです。(p.150-160)
(中略)
セリフ劇としてのアニメーションは、意味の単一性、一方向性によって、ものごとが整理されすぎています。私たちが、子どもたちが、複数の意味に持ちこたえられなくなって、矛盾をかかえきれなくなって、この単一性、一方向性に安住している傾向はないでしょうか?(p.164)
僕はまさにアニメーションが発達してきた時代に育った世代であり、
僕もアニメーションは結構好きです。
でも、確かに、アニメーションの持つメッセージ性というものは、
多くの場合比較的単純ではあります。
まあ、だからわかりやすくて、
受け入れられやすいということなんでしょう。
そうした単純さ、わかりやすさ、というものに慣れ育つと、
社会や精神性の複雑さに耐えきれないということは、
あるかもしれません。
今の世の中、○か×か、白か黒か、
二項対立でしか物事を考えられない人が
多くなったような気もします。
特に耳鳴りの患者さんなどの中には、
「耳鳴りがひどくて地獄のような生活」と
「耳鳴りの全く消えた天国のような生活」のどちらかしか、
頭の中にイメージがないような人がいます。
本当は、多少耳鳴りがしていても、
普通の生活を楽しくおくることができる状態というのが
無数に存在しているはずなのです。
「この耳鳴りが少しでも小さくなったら、それだけでいいのに」
と言葉ではおっしゃる方はたくさんいらっしゃいますが、
「なら、少し小さくなったら、生活がそのように変わりますか?」
とお尋ねしても、具体的に答えられない人ばかりです。
これは耳鳴りだけの話ではありません。
いろいろな困った問題を抱えてどうしようもなく、
立ちすくまれている方の中には、
考え方が二項対立しかない場合というのも
多いのではないかと思います。
まあ、最後はちょっと脱線しましたが、
映画を見る時にはいろんなことを感じて、
いろいろなことを考えて、
観てみることが必要だなと思いました。