本:声 ~記号に取り残されたもの~2

筆者は、言語学が専門で、
ホメーロスやイーリアス、オデュッセイア
といった古典を研究されていますが、
こうした作品は、ちょうど文字というものが登場した頃のものだとか。

驚きなのは、このころの文字-楔文字みたいなやつですね、
こうした文字は意思を伝える手段ではなくて、
カタログというか、備忘録の様なものとして使われていたらしい。
つまり、
「言葉では伝えられないものがある」
ということを、強く感じていて、
そうしたものは決して文字にはしなかったたらしいのです。

だから、イーリヤスやオデュッセイアなどは、
基本的は人から人へと口伝えに受け継がれていたそうなのだ。
そのため、吟遊詩人といった人が、
職業として存在していたのだと。
この口伝えに関わる人は、
一言一句、抜け落ちないように覚えるのは当然ですが、
おそらくイントネーションや息継ぎなども、
完全にコピーできるように訓練していたのだろうと思われます。

以下、あとがきを引用させていただきます。

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「バベルの塔」以前の世界は「すべての人が同じ言葉、同じ語を用いていた」という創世記の言葉の意味を私はこのような脈絡で想像してみたい。「火」は昔は火と熱の二つを含意していたが、現代ではこの二つの機能が分離され、蛍光灯のように光は出すが熱は出さないもの、電子レンジのように熱は出すが光は出さないものに分かれてしまった。昔総合的な意味をもっていた火は現在の日常生活からはほとんど追放されている。(中略)そしてその光と熱とに暖められてきた人間の心も昔の心とはまったく違ったものになりつつある。言葉も記号化された情報とそれを伝える人間の心とに関わるものであったが、情報の伝達手段としては異常な発達を遂げつつも、人間の心を伝えるものとしては消滅の危機にさらされている。
大昔は自分自身を指す代名詞がなかなか出現しなかったふしもある。それ以上に主体と客体との言語的区別も最初からあったわけではない。しかし、自分が相手をどう思っているか、というような本質的情報の伝達はおそらく今以上にうまくいっていたに違いない。人類はある方向の便利さと安寧を求めてどんどん進んでいるが、その先に口を開いているおそろしい深淵に落ち込まないためには、われわれはもう一度昔の人間の感性の健全なところを真似してみる必要があるのではないと私は密かに思う。言葉は心の社であり、論理のかたまり、情報の道具などではもともとなかった。さらに言葉に関わるわれわれの感覚器官(声はその代表的なものであるが)を忘れ、言葉をひたすら思弁の具としてきたわれわれの責任は少なくない。(中略)
茶道も華道も舞踏も建築も数学でさえ本来は文字や数字といった二次記号を使わない。書物は要するにメモであり、師匠の姿と声を真似し自分のなかに自分としての新しいものが生じてこないかぎり、読んでもなんの役にもたたない記号のつまった紙の束である。(あとがきより)

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「メラビアンの法則」ってご存じですか?
1970年代アメリカの心理学者が実験から導き出したものです。
最近では拡大解釈されて、色々な自己啓発本などにも登場します。

「メッセージが発せられた場合、
その内容自体の影響は7%にすぎず、
むしろ顔の表情やボディランゲージといった視覚的な影響が55%、
声のトーンやピッチといった聴覚的な影響が38%も占める」
というやつです。

これをふまえて、自己啓発セミナーなどでは、
相手にメッセージを伝えるテクニックとして、
視覚情報・聴覚情報をうまく利用しよう、みたいなことがあるようです。

でも、これって、上のあとがきの主旨とは全く正反対のような気もします。
本来、「こころ」や「最も伝えたいという想い」が最初にあって、
それが声という媒体で伝達される時、
実はその想いは声が伝える内容ではなく、
音質やイントネーション、あるいは間合いみたいなものが総合的に
情報として声に載せられているのであって、
テクニックで相手の心に踏み込んでやろうというのとは違います。

何はともあれ、我々が声の本来の役割を取り戻すには、
普段から会話の中でも、声に耳を澄ませることが大切なんでしょうね。
微妙な声の固さであるとか、息づかいの変化というものに
もっと気を遣うべきものなのかもしれません。

あ、でも、これって、女性は普段からやっていることですよね。
男のウソなんか、簡単に見破るんですから。
・・・いや、別に経験を語っているわけではありません、念のため。