「僕が医師になるまで1」の続きです。
そんなわけで、平凡な高校時代でしたが、
3年に上がる時に理系と文系の選択しなければならなくなりました。
当時、5教科の中で比較的得意だったのは、数学、生物、倫社でした。
中でも生物は、ちょうど、分子生物学が急成長する頃でもあり、
一番興味深い分野でした。
ちょっとググってみますと、
ワトソンとクリックが二重らせん構造を提唱したのが1953年とあります。
そして、DNAからmRNAが転写されタンパク質に翻訳される、
という一連の流れ(セントラルドグマ)が
生物の基本原理だとわかってきたのが60年代で、
僕たちは、そうした事が広くコンセンサスを得られるようになって、
一般の生物の教科書に載るようになった最初の頃だったのだと思います。
生命の神秘を分子レベルで解き明かす!
これは僕にとってすごく魅力的なことでした。
そんな魅力的な、分子生物学、あるいは遺伝子工学を学びたい!
それが、もともとのきっかけでした。
そうなると、専攻は理学部生物学科か医学部です。
現在ならば入学志望を出す前に、
志望する大学・学科は何を専門にしているのかとか、
得意な分野は何かといったことを、
インターネットなどでちゃんと調べてから願書を出すことでしょう。
まあ、当時でも、きちんと自分が何をしたいか、
そして、そのためにはどこに行けばいいかをちゃんと研究して、
そのうえで入学できそうなところを選ぶ人はいたのでしょうが、
当時の僕はそんなことは何も考えていませんでした。
とにかく生物学科か医学部に行けば
分子生物学や遺伝子工学ができるにちがいない!
そんなのんきな学生でした。
当時、母校の虎姫高校は県下では3番目の進学校でしたが、
現役での合格率は県下でも1番と言われていました。
当時は、進学塾もまだ大都市圏中心にしかなく、
虎姫というロケーションからは、浪人するとなると家からは通えず、
結局下宿せざるおえない状況でしたので、
どうしても、現役で確実に入れそうなところに願書を出す傾向がありました。
また、今はどうかわかりませんが、
田舎でしたので「浪人」というと、近所の目が気になります。
そんなわけで、できるだけ確実に合格できそうなところをと考え、
金沢大学生物学科に願書を出しました。
(それでも、最終的には合格通知がくるまでドキドキでしたが。)
金沢大学はその頃は医学部と工学部以外は、まだ金沢城の中にありました。
大きなお城の中の自然の豊富なキャンパスで、
それでいて繁華街まで徒歩で十分行ける絶好のロケーション。
大学キャンパスは、まだ多少の学園紛争の名残のようなアジテーションや、
チラシの山が学食に置かれてはいましたが、
自由なキャンパスライフを謳歌する雰囲気もあふれていました。
そんな中で、大学生活スタートです。
みんなで酒を飲んで、四高寮歌をみんなで斉唱したりして・・・。
(金沢大学は旧制高校制度で四高と呼ばれ、バンカラな寮生で有名でした)
たった1年しか在学していなかった金沢大学時代でしたが、
高校卒業してすぐの新生活ということもあってか、
僕の中では今でも素敵な青春の一コマとして記憶に残っています。
ちょっと長くなったので、ここから後は、次回にしましょう。