doblogに書いていた頃の2005年1月17日の記事:
阪神大震災から10年。早いものです。
当時僕は某大学病院に勤務していましたが、
ちょうど3月から神戸の病院に赴任する予定でした。
1月15日だったか16日だったか、
嫁は今度神戸で住む住宅を知人に借りる算段をして
帰ってきたあとでした。
僕も数週間前に神戸を訪れ、赴任先に挨拶をしておりました。
神戸に行く道中、電車の中から見える神戸の町並みを眺めながら、
ふと、こんなところで地震でも起こったら大変だな、
とその時には何の気なしに思った記憶があります。
そして、17日。
まだ赴任していなかったので、自宅で地震に会ったわけですが、
まあ、ある程度震源地から離れていましたので、
そこそこの揺れは感じたものの、
「あー、びっくりした、とうとう東海地震が来たか!」、と思い、
これから赴任する神戸が震源地だとは思っていませんでした。
テレビをつけて段々と状況が明らかになってくるにつれて
これは大変なことになったという思いでした。
まさか、そんなことがあるのかという思い。
結局、赴任は1ヶ月遅れ、4月からになりました。
さすがに落ち着きはでてきていたものの、
それでもまだJRは完全復旧しておらず、
住吉で阪急に乗り換えて三宮まで。
三宮では、そごうはめちゃくちゃ、
神戸市役所の旧館は4階部分がぺちゃんこでした。
職場まで行くのも、最初は車が使えず、
長蛇の列で並んでバスを待ち、
車が使えるようになっても今度は大渋滞。
苦労して病院に行っても、患者さんは1日10人程度。
あとは、市内の避難所めぐりで
耳などの症状がある人の診察を行なっていました。
僕は直接震災で被災したわけでもなかったので、
当時のことといえばそのくらいのことです。
しかし、震災直後先輩医師
(僕はその医師と入れ替わりで赴任したのですが)は、
自宅が大丈夫なのを確認したのち
10km以上離れた病院まで歩いてかけつけ、
復旧処置にあけくれたそうです。
先輩は、「公務員みたいなものだからしょうがないわ」
と言っておられました。
はたして、自分が同じ立場だった場合、
余震もまだまだ頻繁におこる中を、
義務とはいえちゃんとやることができたかどうか。
いざ、大地震が起こった時に、父として家族をちゃんと守れるか。
医師としてちゃんと周辺の住民の役にたてるか。
普段考えることがない分、せめてこういう日には安全のこと、
緊急時のことも含めていろいろと考えておこうと思います。
それにしても、震災当時、神戸の人々は暴動も起さず、
みんなで助け合いながら乗り切っておられました。
救援物資などの配給などでもきちんと列になって待ったり。
日本でなければこうはいかなかったという人もいます。
実に民度の高い日本人に誇りを持ったものです。
どんな時でも誇りを忘れず
自分にできることをやって行きたいですね。